右大将・頼朝の平泉・藤原討伐が終焉し、建久年間(1190〜99)にはいると、全国的に内乱状態は収束、幕府支配が浸透していった。平家の重要拠点であった九州地方も幕府の太宰府掌握と鎮西奉行設置により、次第に幕府支配が及んでいった。鎮西諸国を管轄する守護所が太宰府に置かれ、建久末年に各国に守護が分置された。その結果、筑前・豊前・肥前国と壱岐・対馬に武藤(少弐)家、筑後・豊後・肥後国の守護には大友家、薩摩・大隅・日向国の守護に島津家が補任された。
「建久図田帳」体制の成立
鎮西諸国の平氏方勢力で、原田、板井、菊地、山鹿らの大領主層は、所領を全部又は大幅に没収されたが、中小規模の領主層や寺社勢力は所領を安堵された。しかし惣地頭を置き社僧・神官の所職を改補するなど、平家方人であった在地勢力に対する幕府支配は次第に強化されていった。
惟宗忠久はすでに元暦2年(1185)、幕府・領家により島津荘下司職に補任されている。摂関家は内乱後の荘園支配再編のために、また幕府は平家が荘務を司っていた島津荘支配のため、惟宗忠久に島津荘を支配させることで利害関係が一致したのである。惟宗忠久は従来典型的な御家人と見られていたが摂関家に仕える官人としての面も注目され、島津荘惣地頭補任についても摂関家側の意向もあったと考えられる。摂関家・家人である忠久が御家人化した要因は、幕府内における重臣・比企能員の“縁者”であったことによる。比企家は従来考えられていた以上に幕府においては有力者であり、忠久と近い関係であったことが指摘される。その後建久8年(1197)、惟宗忠久は薩隈二カ国の守護職(その後日向も)に補任された。
忠久が守護に補任された建久8年(1197)、幕府は九州各国における地頭配置状況掌握のため“図田帳”注進を各国国衛に命じた。薩摩・大隈・日向三カ国には、このときの“図田帳”全体が残っている。
まず、薩摩国をみてみると、国全体の総田数は4010町七段。この中で島津荘域は2934町三段と総田数の70%を超える。島津荘域の中でも一円領はごくわずかで特殊型半不輸田である“寄郡”が全体の70%以上を占める。島津荘で一円領化している伊作郡、日置北郷、日置南郷外小野は、文治3年(1187)、平重澄が一円領として寄進する以前は寄郡であった。したがって、文治3年以前の一円領は、和泉郡350町だけであり、重澄寄進の例は、寄郡を再寄進することにより一円領が形成されるという、荘園形成過程を示していて貴重である。薩摩荘の場合、ほとんどが寄進により形成されていった。
特殊型半不輸領である寄郡は、一般半不輸領と異なった収取形態となっている。中世の年貢は大別すると、本年貢部分に該当する所当(官物)と、それ以外の雑税部分にあたる雑公事とに分かれる。一般の半不輸領では所当を国司に、雑公事を荘園領主に納める。国司に収めるべき雑公事を免除される意味で、半不輸と称すのであり、税を免除されているわけではない。これに対し特殊型半不輸領の“寄郡”の場合は、所当を二分して国司と荘園領主に、雑公事を荘園領主に納めていた。
これらのことは、16世紀に島津家臣団の中枢で活躍する、薩摩国入来院地頭・入来院家及び一族、被官の家に伝わった『入来文書』により確認できる。入来院家は渋谷一族で、鎌倉中期に入来院地頭に補任され下向し入来院の地名を名字とした。
薩摩国中まったく島津荘化していない郡、院、郷は阿多郡だけであった。阿多郡は国内、国外との重要な交易拠点である。おそらく国衙は阿多郡を重要視し、直轄領として保持し続けたのであろう。阿多郡・加世田別府の久吉名には惣地頭として鮫島宗家が補任されている。また一円国衙領が比較的多く残った郡、院は薩摩郡・伊集院など国衙付近やその周囲の地域に限られている。
薩摩国内がほとんど寄郡化したことは、国衙と荘園側との提携により可能となったと考えられている。つまり、在庁官人一族が島津荘政所構成員であり、寄郡であれば国衙も所当の半分は収取できる。一円領はごくわずかで、寄進が圧倒的に多いのも国衙財政との関連であると考えられる。
島津荘の惣地頭としては、惟宗忠久・千葉常胤が補任されている。惟宗家は御家人であるとともに摂関家との関係、千葉家は戦功によるものである 。惟宗家は島津荘の大半、千葉家は高城郡・東郷別府・入来院・祁答院・甑島を領していた。
薩摩国には大宰府領も存在した。“図田帳”によれば阿多郡、川辺郡、市来院、満家院の四郡院が府領化され国司側が相論をおこしている。この後阿多郡だけ府領として確認されている。また府社として揖宿郡、頴娃郡、知覧院に鎮座する開聞宮、薩摩郡の中島宮、高城郡の新田八幡宮、鹿児島郡の郡本社、谷山郡の伊佐知佐社の五社があげられ、各郡内(新田八幡宮のみは川辺郡内)の宮領が府領となっている。
次に大隈国内の荘園公領制を“図田帳”により見ていくと、国内は大隈正八幡宮宮領と島津荘に大別され、わずかに一円国衙領などが存在する。大隈正八幡宮は大隈国一宮であり、宮領は大隈国総田数の半分弱である。宮領は、禰寝院南俣を例外として国衙所在地である桑東郷や大隈正八幡宮鎮座地である桑西郷を中心に分布している。大隈正八幡宮領は一円領よりも半不輸領がはるかに多い。半不輸領の場合、所当を国衙に雑公事を大隈正八幡宮に納める。大隈正八幡宮領には一円領、半不輸領とも惣地頭として中原親能が補任されている。
大隈国の島津荘では、薩摩国と異なり一円荘が寄郡よりもわずかに多い。一円荘域は財部院、深川院など日向国境の地域と種子島である。種子島が一円荘化しているのは交易の重要拠点であるからだと考えられ、寄郡はおおむね国衙や大隈正八幡宮より離れた地域に分布している。
“図田帳”の記載を見てみると、国衙領、大隈正八幡宮領に関しては記載が詳細であるのに対し、島津荘に関しては一円荘、寄郡ともに記載は簡略である。しかも島津荘域は“図田帳”作成時よりも半世紀ほど前に荘園側で作成した“検注帳”に基づいて記載されている。そのため、大隈国では寄郡における検注権は、荘園側が掌握していたと考えられる。
一円国衙領は在庁官人の別名と大隈正八幡宮の経講料田である経講浮免田、大宰府領は五ケ所の府社の社領である。大隈国の場合は薩摩国と比べ国衙と島津荘の関係が大きく異なる。薩摩国では在庁官人の一族が荘官化していたのに対し、大隈国では在庁系領主と荘園系領主とは異なっている。薩摩国では国内のほとんどの郡、院、郷は寄郡化しているが、国衙の一国平均役は勤仕している。しかし大隈国では寄郡の検注は荘園側が行う。図田帳の記載からも国衙支配は寄郡には十分及んでないことがうかがえる。
関東御家人の西遷
内戦終結と鎌倉幕府成立に伴い、平家一門や反幕府勢力から没収した所領は、戦功のあった御家人などに付与された。この結果、坂東地方の御家人達は陸奥・出羽両国や北陸道各国に北上したり、西国へと移住した。御家人たちの移動は、全国規模の大掛かりなもので、鎌倉時代は大規模な人移動の時期であった。北遷・西遷する御家人たちは、自分の被官・農民たちを引き連れ地頭職に補任された所領に下向したため坂東地方の武家社会における伝統・慣習を下向した地にもちこみ、先住の武士たちと紛争も起こしていた。
薩隅における鎌倉御家人を図田帳で確認すると、薩摩・大隈両国にまたがる島津荘大半部分の惣地頭・惟宗忠久がいる。島津氏は忠久、忠義(時)2代のあいだは下向せず、「元寇の役」時の3代・久経期に下向したと考えられている。島津荘薩摩方面五郡・院の郡司・惣地頭であった千葉常胤や、大隈正八幡宮一円領・半不輸領の惣地頭・中原親能らはいずれも下向していたとは考えがたい。彼らは鎌倉初期に代官紀太清遠の非道狼藉で訴えられた千葉常胤のように代官を派遣してみずからの所領を支配していたと考えられる。
鮫島宗家は阿多郡惣地頭に補任。その後、嫡子・家高には阿多郡北部、宗景には同郡南部が譲与され、おのおの阿多北方・阿多南方と呼ばれた。阿多北方には薩摩国分寺・新田八幡宮・神宮寺五大院の一円領が存在した。延応〜宝治年間(1239〜49)にかけ阿多北方地頭・鮫島家高は阿多北方内に所領を有する寺社と所務相論を起こす。その頃の鮫島家高の行動は、坂東の武家社会における慣習・伝統を示す好事例であると考えられる。
鮫島家高の行為は、わずかな得分を収取する権限しかない惣地頭が、下地の支配権を獲得するために行った実力行使であった。非合法行為であったうえ、殺伐とした板東武家社会の伝統、慣習までも持ち込み地域に根ざすことに失敗した事例である。鮫島家高解任の後は二階堂家が阿多北方地頭として入部する。
鎌倉中期、千葉家(当主は秀胤)が宝治合戦の余波で滅亡したのち、遺領には渋谷家が惣地頭として入部した。渋谷家は千葉家のように代官支配ではなく、正員が直接入部した。渋谷一族のなかで、入来院地頭に補任され、入来院家を名乗った系統は『入来院文書』と呼ばれる多くの家文書を残している。
渋谷家は渋谷層から被官、所従だけでなく農民たちを連れて薩摩国へ下向している。下向した農民たちは渋谷家の経済基盤を支えるとともに、軍事力を担ったと考えられる。また従来の領主たちが谷戸田を拠点としているのに対し、低湿地を開発して田を設定し、河川沿いに地頭、給人館を構え、河川交通や市場流通の統制を意図した。また遠隔地所領間に交通網を有していて列島規模で移動している。このような事例は、千葉家などほかの東国武士に共通する。渋谷家も一定の得分収取権しかない惣地頭だったので、鮫島家同様下地支配権を獲得するため、吉枝名主伴氏ら下地支配権をもつ先住の小地頭と所務相論をおこした。渋谷家の場合、幕府の庇護を受け、しだいに下地支配権を獲得していった。
幕府・守護の薩隅支配と蒙古侵攻
島津家の祖・忠久は『島津家文書』や『明月記』、『三長記』などの“惟宗忠久”の記載からも明らかなように、惟宗氏である。惟宗家は朝廷や摂関家などに実務官人として仕え、“忠”の字を通字として薩摩、大隈両国に広がる島津荘の下司・惣地頭に補任。荘園の名称を名字として島津家を名乗った。惟宗家の前身は渡来系氏族秦家である。秦家は大和朝廷内において蘇我家のもと財務管理などの実務に従事した。のちに秦家子孫の中に蘇我家末裔を称する氏族があるのは蘇我家、秦家の主従関係を血縁関係に擬制化したものであると考えられる。
忠久は惟宗を名乗っていたが、建久末年以降島津を名字にしている。薩隅日に広がる島津荘の領有権を示す意味もあったと考えられる。また忠久は「承久の乱」以降藤原氏も名乗っている。これは幕府発給文書や『名月記』などから確認されるので、私称ではなく摂関家の承認を受けた行為であると思われる。この後島津家は名字では島津を称し、氏としては鎌倉期に惟宗・藤原。室町期以後は藤原・源を名乗った。源の氏は島津家が対外貿易を有利に進めるために、室町幕府将軍・足利家の氏を名乗ったのである。
江戸初期になると将軍・徳川家に対抗するため、源の氏のみを称するようになる。そのよりどころとなったのが15世紀以降の島津忠久・源頼朝落胤説である。江戸時代の薩摩藩公式見解は島津氏清和源氏源頼朝末裔説であった。幕末尊王攘夷風潮の中で、島津家の以人王後胤説もでてきたが根づかなかった。
建久8年(1197)島津家の祖・惟宗忠久は、正式に薩摩・大隈両国守護へ補任される。忠久はすでに薩摩・大隈・日向三カ国に広がる島津荘惣地頭職に補任されていたためである。忠久は島津荘を事実上の守護領として国内支配を推進した。鎮西諸国の守護権限が、他地域の守護権限より強いことはすでに指摘されてきたが、忠久も大隈正八幡宮半不輸領・大隈国桑西郷溝部村の領有権をめぐる正八幡宮神官酒井一族の相論に裁決を下している。すなわち忠久は所務相論の裁決権を行使しているわけで、守護領以外の領域にも強い支配を及ぼしていることがうかがえる。
ところが建仁3年(1203)島津忠久(建久9年に島津を名字化)は、比企能員一族が北条家に滅ぼされた事件に縁座して薩摩・大隈・日向三カ国の守護職と島津荘惣地頭職を改易された。薩摩国では同年末、北条時政が島津荘寄郡鹿児島郡司・弁済使職をめぐる惟宗康友、平忠純一族の相論に関し、両者の理非を荘官たちに尋ね、相伝文書の道理に基づき裁決するよう守護所に命じている。このことから、忠久のあとは北条時政が薩摩国守護職に在任していたと考えられる。
島津忠久は元久2年(1205)、薩摩国守護職に還補された。その後、建暦3年(1213)忠久は「和田合戦」に北条方で参戦し、同年7月には島津荘薩摩方惣地頭職に還補された。したがって忠久は、薩摩国守護職、島津荘薩摩方惣地頭職を兼任し、薩摩国支配だけを再び与えられた。
忠久が薩摩国守護、島津荘薩摩方惣地頭職に還補された理由はなにか。「和田合戦」における勲功により薩摩・大隈・日向三カ国にまたがる島津荘のいずれの部分を島津家に返す必要性があったとしても、なぜ薩摩国であったのか。以下に考察する。
前述のように大隈、日向両国における島津荘面積に占める一円荘の割合は半分強で、薩摩国の島津荘に占める一円荘の割合よりもはるかに大きい。薩摩国の場合、一円荘、寄郡を含めた面積の、国内総田数に占める割合は三カ国中最大であるが、一円荘の面積は最小である。島津荘一円荘の面積は、日向国が最大で2020町。大隈国が750町あまり。薩摩国では635町である。荘園からの収取は、半不輸領よりも一円荘を支配下においた方が断然有利である。ゆえに島津荘支配を意図する北条家は、一円荘面積の広い島津荘大隈方、日向方を手元に残し、島津荘薩摩方を島津家に返したのではないかと考える。また、薩摩国内は総田数の大半が島津荘の寄郡である。寄郡は半不輸領の一種であるから、荘園側の支配権が及ぶ領域である。薩摩一国を束ねるうえで、元荘官島津忠久の存在は有効であった。
島津家は、初代・忠久、2代忠時、3代・久経前期までは鎌倉に在住し、現地の政務は守護代、惣地頭代が司っていた。島津惣領家が鎮西に下向するのは「蒙古の北九州侵攻」時であり、その後島津家の薩摩支配が本格化する。
大隈国守護、島津荘大隈方惣地頭職は北条家が継承していった。北条時政、義時、それ以降は泰時の弟・朝時にはじまる名越家によってである。守護・名越家は複数国の守護職を兼任していたので、大隈国に下向はしてこなかった。そのため、藤原(肥後)家を守護代に任命したが、藤原氏も鎌倉にいたため、現地で守護所を束ね、政務をとったのは守護又代官であった。
名越家は幕府滅亡時まで島津荘大隈方の惣地頭であった。そのために名越家が大隈守護職を相伝していた時期は、守護領としての性格をもっていた。惣地頭代には守護代藤原家が任命され藤原一族が島津荘大隈方に土着した。その一系統が島津荘一円領・種子島を領有し、以後島津家に従う種子島家であると考えられている。
鎌倉前期の「承久の乱」において薩摩国満家院司・大蔵幸光や、川辺郡司・平久道、内乱前の鹿児島郡司・平忠純の一族・忠重、忠光らが後鳥羽院方で参戦。大隈国衙の調所政所職・調所書生職であった調所家も軍兵催促状に加判した。内戦終結後、大蔵幸光、平久道らは所領を没収され、調所家も調所政所職、書生職を解任された。戦後、鹿児島郡司は平家の庶家と想定される矢上家により継承され川辺郡は得宗領となる。
このころ鎮西の動向と共通して、院方に加担する在地勢力が薩摩、大隈両国にも存在した。その結果、交通上の要衝・川辺郡は得宗領化したし、反幕府勢力は処断され、幕府支配は一層浸透した。
ここで注目されることは、大隈国守護・名越家が国衙の在庁官人を中心に、国内領主層を守護所構成員として組織化しつつあることである。守護・名越家は「承久の乱」で後鳥羽院方に加担したり、その後罪科をおかしたりなどして改補された所職を宛がうことにより、在庁系を中心とした国内領主層を守護所に組織していった。その後、島津荘大隈方を基盤としつつも、守護所を通じて国内支配を進めてゆく。
文暦年間(1234〜35)まで薩摩国揖宿郡地頭職は島津一族に継承されてきたが、文暦2年(1235)に地頭島津忠綱(二代忠義の弟)は、揖宿郡司・平忠秀以下親族、所従を殺害するという非法行為のため、地頭職を改補。その後は北条一族が守護である大隈国守護領となっている。揖宿郡の守護領化は、守護所が山川湊を外港として利用するためであると考えられる。
13世紀後半、蒙古は南宋を孤立化させるために日本との修好を求めた。しかし、幕府は蒙古側の要求を拒否し、対蒙古戦への防備を固めるとともに、九州に所領をもつ東国御家人に九州下向を命じ、西遷、定住の大きな契機となった。
幕府側は蒙古軍の侵攻口である博多湾沿岸に、上陸阻止のため石築地を築かせた。石築地の原材料は博多湾近辺より調達したが、築造経費は鎮西各国に負担させた。(『大隈国在庁官人・調所家所蔵建治2年 (1276)8月石築地役配符写』)
石築地役は荘園、公領を問わず賦課されている。国衙と関係深い大隈正八幡宮領だけでなく、従来、一国平均役を負担しなかった島津荘に対しても一円荘、寄郡両方に賦課されている。大隈国守護所は石築地役を一国平均役方式で国内に賦課している。また、同役は御家人・非御家人を問わず賦課されている。
幕府支配の強化
蒙古軍の北九州侵攻により薩摩国守護・島津久経も異国警固のため九州に下向した。薩摩国の警固担当は筥崎で、島津家は薩摩国御家人らを統率して石築地役、異国警固役をつとめ、対蒙古戦に従軍することになる。
文永11年(1274)10月の第一次蒙古侵攻は、大暴風の天佑と将兵の奮戦によって一夜にして大勝利を収めることをえたが、元軍の強大さと日本方の軍備の欠陥について学ぶことが多かった。かくて北条実政が鎮西探題として下向し、鎮西諸国守護や御家人に石築地役と警固番役を課して、蒙古の再襲に備える。警固番役の結番は、春三ヶ月が筑前、肥後、夏三ヶ月が肥前、豊前、秋三ヶ月が豊後、筑後、冬三ヶ月が、日向、大隈、薩摩だった。(『少弐経資廻文』)
第二次蒙古侵攻は、弘安4年(1281)5月に北軍4万の壱岐侵攻に始まり、7月下旬の南軍10万の来寇によって頂点に達した。幸い7月29日の大暴風により敵戦鑑が沈没したので、辛くも勝利した。「弘安の役」の勝利は幕府の断固たる決意と「文永の役」以来の異国警固役や石築地役など戦備充実、将兵の奮戦によるものだった。島津家も守護・久経、弟・長久をはじめ多くの薩隈兵を伴って参戦した。
「弘安の役」後もながく蒙古との緊張はつづき、警固番役と石築地役は鎌倉末まで相続。このために武家社会は甚だしい経済的窮乏に追いやられ、あるいは重役に堪えかね所領を返上する者がでたり、あるいは警固番役の下付を願う者などが現れた。御家人中心を建前とする幕府も彼等の救済をいかんともすることができず、だからといって苦し紛れの御家人荘公領に対する非違を野放にするわけにもゆかず、御家人主義と法治主義との板ばさみにあい、幕府の信望は急速に衰え始めた。その一例として島津忠長の申状案が残っている。
「忠長は亡父・久経に従って建治元年(1275)薩摩に下向して以来、警固役を勤め、父が弘安7年(1284)博多の役所で死んでからも20年勤仕してきた。然るに、所領伊作荘は領家一乗院の進止のため有名無実であり仏神人給田を除いては、地頭としての得分が最小の加微にとどまった。薩摩と筥崎役所は遠く離れ、出費が多く、当所領も領家進止であるから人夫官駄も思うように使えない。また一族郎党の扶持も、充分にできないので、戦場の本意、警固役も果たせず、まことに困窮の極みである。願わくば年来重役の労務に対して警固所領の給与の優恩を賜りたい。」(嘉元3年(1305)『島津忠長申状案』)
久経は弘安7年(1284)筥崎で死去し嫡子・忠宗が家督を継承する。忠宗の家督継承の翌年と翌々年幕府から『大田文』注進が命じられた。『大田文』中心には在国司・大前道調と忠宗の叔父・久氏が関与している。
同年、新田八幡宮政所は石築地役の宮領賦課と10月中の納付を約束している。以上の事から弘安8,9年の薩摩国への『大田文』注進命令は、薩摩国領内に石築地役を賦課するために出された、と考えられる。また、『大田文』の注進には、守護と国衙の在庁官人も関与しているため、島津家は国衙をも支配していた可能性がある。
また忠宗の時期には、島津家は薩摩国の一宮相論に関係することになる。「蒙古侵攻時」、幕府は各国の国分寺・一宮に蒙古調伏の祈祷を命じ、各国守護に一宮への剣、神馬奉納を命じた。大隈国のように、一宮が確定している場合は問題ないが、薩摩国のように枚聞神社か新田八幡宮か定まっていない場合は、一宮相論がおこる。忠宗は一宮の決定とは無関係とはしながらも、剣、神馬を新田八幡宮に奉納した。これは、新田八幡宮が薩摩国一宮であることを事実上認める行為である。この結果、一宮相論は決着し、新田八幡宮は薩摩国一宮を称す。忠宗が一宮相論で新田八幡宮側に有利に処断した理由は、島津家と新田八幡宮執印・惟宗家とが同族であることによると想定される。
鎌倉期、島津家は島津荘薩摩方大半の惣地頭であった。島津家が惣地頭職を継承した荘域のなかには得宗領化した地域も存在したが、大半は島津家が惣地頭職を保持し一族で継承していった。
惣地頭は得分権収取のみで下地支配を伴わなかったため、一族での分割が進む鎌倉後、末期になると、各島津一族は惣地頭として支配する領域がせまくなっていった。そのため、一定量の得分を収取するためには小地頭が有する下地支配権を非合法的に奪わざるを得ず、鎌倉後・末期になると伊作荘や谷山郡など島津荘薩摩方内の各地域で小地頭と相論を起こし、下地支配権を獲得していった。
鎌倉末期になると、島津家は薩摩国内の島津一族支配領域をまわり、狩を行っている。参加しているのは、守護代・酒匂家、本田家や猿渡家など譜代被官、当主・島津貞久弟・和泉実忠や庶家・山田家ら島津一族である。狩参加者は人、馬役を負担し、武芸鍛錬、示威の場であるとともに、狩をとおした一族、被官への統制強化をはかっている。
島津家は守護所を国衙所在地高城郡に隣接した薩摩郡におき、島津忠宗・貞久期は譜代被官・酒匂家を守護代に任じ、被官・島津一族を統制し、守護・島津荘惣地頭として国内を支配した。
薩摩国に対する幕府支配については、川辺郡がすでに得宗領化し、地頭職は得宗、郡司職と地頭代官職には得宗被官・千竈家が補任されていた。川辺郡南部の口五島・奥七島にたいしては、鎌倉末期までは、島津家が地頭職を保持していたが、同時に千竈家が地頭代官職を保持し、得宗の支配が及んでいた。さらに、喜界島、奄美大島、徳之島などは得宗が地頭職を、千竈家が地頭代官職を保持し、異国と接する九州最南端部の交通上の要衝を得宗は支配下においていた。
幕府滅亡時の加世田別府領主は相模六郎時敏である。時敏は通称や名乗りから北条一族と考えられる。加世田別府は良湊を有し交通上の要衝であった。また北条一門領と考えられ、北条家の領有化は正和2年(1313)以前と思われる。また、牛屎院も文保元年(1317)以前に北条領化している。牛屎院も、島津本荘から和泉郡、大宰府に至る陸上交通の要衝であり、揖宿郡も幕府滅亡時まで大隈国守護領である。幕府は薩摩国内の交通上の要衝を支配下におき、得宗領も設定していったため、そのことが島津家に対する圧迫になっていった。島津貞久が幕府の九州統治機関である鎮西探題攻撃に参戦した理由も、北条家の圧政からのがれ、鎌倉初期の所職回復を念頭に置いていたためと思われる。
次に大隈国の場合、弘安3〜5年の間に守護が名越家から千葉家に交代した。文永〜弘安年間(1264〜88)にかけて行われた対蒙古防衛のための北陸、山陰、防長、九州守護大規模更迭の一環である。名越家は依然として島津荘大隈方惣地頭であったので、千葉宗胤以降の大隈国守護は島津荘大隈方を国内支配の拠点とすることはできなかった。そのため、守護は国内支配の新たな拠点を構築していった。
千葉宗胤の時期には、守護所構成員を中心とした御家人を参加させた守護狩が開始。守護狩に参加する御家人は、あらかじめ守護代から賦課された狩人、馬役等を負担。御家人たちに狩人、馬役を賦課し、また武芸鍛錬、示威の場である狩を守護の統制下で行うことにより、御家人たちに対する守護の支配や統制を強化して被官化を目的として行われたと考えられる。守護狩は元亨3,4年(1323,24)にも行われ、守護狩に関する文書が一宮大隈正八幡宮の社家にも残っている。
正応4年(1291)~永仁2年(1294)の間に、大隈国守護は千葉家から北条一族・金沢家に交代した。この後大隈国守護は金沢家、桜田家(得宗近親)と幕府滅亡時まで北条一族が補任された。金沢、桜田家の守護期で注目されることは守護私領の設定である。
守護私領の史料上初見は、金沢時直守護在任中の正和元年(1312)である。この所領の起源は罪科などにより没収された所領や、守護と主従関係を結んだ御家人が寄進した所領と考えられ、大部分は国衙領に分布している。その国内分布は国衙所在地の桑東郷及び隣接した桑西郷、曽野郡、小河院などに集中している。守護私領においては守護代が所務相論を裁許し宛がいがなされていた。また、守護所より雑公事や守護狩の人、馬役が賦課され、頭役の賦課単位として“頭”と呼ばれていた。守護私領は新たな守護領獲得を目的とし、守護の国内支配の拠点であり経済的な基盤でもあった。
大隈国の場合、守護が名越家から千葉家に交代したときに、島津荘大隈方が守護領からはなれたため、守護の国内支配のための新拠点が必要となった。千葉家以降、守護所構成員の守護被官化を守護狩挙行により開始し、守護・北条家(金沢、桜田)は守護私領を設置することで支配体制を強化した。
守護所に編成され守護被官化した在庁官人たちは、守護所の指揮、監督のもとで国内政務に関与した。この事態は従来国衙が有していた行政権を、事実上守護が吸収したことを示している。日本国内の他地域では、国内が内戦状態に突入した南北朝期以降、守護が国衙機能を吸収していく現象がみられるが大隈国の場合は時期的にはやく行われている。
建武政権の成立
南北両朝の対立は、三州の豪族を果てしない争乱へ巻き込んだ。「元寇の役」により御家人たちはひどい窮迫に陥ったが、幕府はこれに適切な救済策を講ずることが出来なかった。荘公領の侵食が始まったのは自然の趨勢で、幕府への不満が高まっていたのも当然だった。
元弘3年(正慶2-1333)4月、島津貞久は足利尊氏より対幕府軍への参戦要請を受諾。翌5月末、六波羅、及び本拠・鎌倉の陥落についで、同月25日北条英時の守備する鎮西探題の征伐戦が行われた。
島津貞久は一族・山田道慶(宗久)、忠能をはじめ指宿忠篤(成栄)、渋谷典重、二階堂行久等薩摩の御家人を中心とした軍を率い少弐貞経、大友貞宗と共に鎮西探題を攻撃、滅亡させた。貞久が幕府側から離反した理由は、幕府本体が崩壊したこと、北条家より強い圧迫をうけていたこと、それに鎌倉初期に喪失した所領の奪回を意図していたことによる。
島津家は、建武政権からあらたに大隈、日向両国守護、島津荘大隈方一円惣地頭、同寄郡預所に任命。建武政権下において貞久は、守護管国内では所務遵行権や検断権を行使し、京都大番役もつとめている。“薩摩国建久図田帳”が建武元年(1334)京で書写されてることも大番役勤仕と関係があるのかもしれない。
建武(1334)の新政は記録所の拡大、雑訴決断所の新設、武者所の設置など、着々と進んだかのように見えたが、公家、武家に対する恩賞の不公平と前代以来続いてきた所領関係の紛争に満足な解決を与えることが出来なかったことなどが大きな原因となって、たちまち挫折をみるに至った。
かねてより征夷大将軍及び諸国総追捕使を望んで満たされなかった足利尊氏が、旧執権家・北条時行のいわゆる「中先代の乱」を好機として、建武2年(1335)7月東下して時行を討ち鎮圧し、鎌倉に拠って反逆すると、たちまち新政は崩れてしまった。建武元年7月、島津荘日向方南郷でも北条家縁故者を中心とした乱がおき「中先代の乱」の先駆となっていた。
建武3年正月、京に進撃した足利軍だったが、延元元年(1336)2月に会津より遠征した北畠顕家率いる政府軍にやぶれ九州に落ち延びた。この頃島津貞久は少弐、大友ら九州三人衆と共に足利与党になっていた。そして同年3月2日、筑前博多での「多々良浜合戦」で菊地武敏を中心とした政府軍を破った一戦は、九州の形勢に決定的な影響を与えた。しかし、肥後に菊池武敏、日向、大隈に肝付兼重、伊東祐広の官軍があったので、足利家は日向、豊後方面においては畠山直顕を、薩摩においては島津貞久を大将として官軍に対応させた。官軍精強の肝付家に対しては、大隈・禰寝清成、日向・土持家もこれにあてた。
かくて足利尊氏は後顧の憂を無くして同年4月3日、九州諸侯軍を率い東上を開始、楠木正成、新田義貞ら主力を集結させた政府軍を「湊川の合戦」で撃破し、京都を制圧した。この戦闘で、山田景範と、その兄・比志島義範は新田軍と戦い、義範は戦死している。一方、島津貞久は薩隈の兵を動員、日向三俣院に拠る肝付兼重の支城である大隈国肝付郡加瀬田城を攻略、また畠山直顕は禰寝軍らを率い三俣院の肝付、その与党・日向櫛間城に拠る野辺盛忠らを屈服させた。
足利尊氏は持明院統の光明天皇を擁立し“建武式目”を制定して室町幕府を開いた。後醍醐天皇は幽閉されたが同年京都を脱出して吉野へ逃れた。また、新田義貞は越前金崎城に拠って奮戦したが、延元2年(1337)3月、足利直義軍により陥落。貞久の庶長子・川上頼久も将として参戦した。以後約60年、全国規模で内戦状態が続いた。
動乱期、島津貞久は幕府側で国内領主を率い、南朝方と戦闘を交えた。島津家の守護管国内で南朝方に味方したのは肝付家、谷山家ら島津家以前に土着していた領主たち、鮫島家のように島津家と同じ惣地頭、伊集院家など島津一族である。彼らは惣地頭と郡司の対立、惣地頭同士の相剋、嫡庶間対立により南朝方に加担したと思われる。南朝方勢力を討つため、貞久は国内領主を率いて戦闘に参加。対新田義貞戦など遠隔地の戦闘には老齢の貞久のかわりに貞久の子弟や一族が軍事指揮を担当した。
南朝方は延元2年(建武4・1337)3月、懐良親王を九州に差遣する計画を立て、先駆として三条泰季を、薩摩国に派遣、軍勢催促を行わせた。たちまち河上家久、揖宿忠篤らが来応し、伊集院の大隈助三郎忠国なども兵を挙げて宮方につき、肝付兼重も海を隔ててこれに呼応したので、三州の天地、今や宮方の勢威に覆われた。
島津家においては越前の対新田戦にあたっていた川上頼久が急ぎ帰国、伊作宗久と薩摩の地頭御家人を指揮し、伊集院忠国、鮫島家藤、谷山隆信の官軍を叩くこととなり、ここに三州の各地において熾烈な戦闘が展開された。当主・島津貞久は官軍の益山家、古木家などを討ち、市来時家の市来城を降し、中村秀澄の東福寺城、矢上高澄の催馬楽城をも攻撃、伊集院忠国の平城、阿多郡の鮫島城も攻撃するなど、一進一退を繰り返しながら、次第に経略の手を伸ばしていった。
しかし、興国3年(康永元・1342)5月1日、後醍醐帝皇子・征西大将軍宮懐良親王が薩摩津に上陸して、谷山隆信の谷山城に入り、御所としてからは依然宮方が優勢になった。この状態は以降5年続くが、幕府は頼久・宗久兄弟(貞久子息)や伊作宗久(貞久従兄弟)などに薩摩国人に対する軍勢催促を行わせ、谷山軍らと交戦させている。依然島津家の薩摩国内における支配拠点は島津荘であった。
谷山は南に揖宿、頴娃、知覧家、北に矢上、伊集院家、西に鮫島家などが囲障となり、諸族の来応する者が多く、日向、大隈の肝付、野辺、楡井頼仲、遠く肥後の菊池、阿蘇家とも脈絡を通じた。両軍の激突は谷山の波平及び牛下で戦われ、貞久は苦戦の末ようやく退いた。その後、両軍対峙のうちにも貞久は矢上家の催馬楽城、東福寺城を落とし、宮方もまたこれを奪還しようとして局地的戦闘は続いた。
正平2年(1347)正月以降谷山城に集結しつつあった宮軍は、6月6日海上からの熊野水軍の援護と呼応しつつ渋谷一族の拠っていた東福寺城を攻めた。同月19日三カ国の兵を結集した島津軍だったが、宮方と戦い敗れた。
大隈国内では肝付、野辺家らが決起した。この事態に守護・島津貞久及び国大将・畠山直顕は軍事行動を起こしている。畠山家は足利一門で、守護と国大将を併置することは珍しい。幕府は大隈国の掌握と島津家に対する牽制のため、畠山直顕を国大将として派遣したとも考えられる。
島津家の大隈国内における支配拠点も島津荘であった。しかしこの時期、島津家の支配は大隈正八幡宮領には及ばず、大隈正八幡宮領の領主や在庁系領主を組織していたのは畠山家であった。故にこの時点では国大将・畠山直顕が守護・島津家よりも大隈国内に対する強大な支配力を持っていた。
南北朝両立と「観応の擾乱」
軍事的に優越化しつつあった幕府側では、二元政治の矛盾が露呈しつつあった。既成秩序を無視する尊氏側近・高師直派と鎌倉幕府の執権政治を理想とする尊氏弟・直義派との政治抗争である。この抗争は、軍事的な衝突に発展し「観応の擾乱」といわれ、国内は南朝方もあわせ三つ巴の内戦となった。
尊氏庶子で直義の養子・直冬は九州に下向し、薩隈両国も含め九州各国は抗争に巻き込まれていった。直冬下向に対し薩摩国では討伐命令が幕府や九州探題(今川了俊以前は鎮西探題)の一色家から出されている。九州探題は九州各国守護を統括し、各国守護との間に対立関係を内在する場合もあった。
延元元年(1336)3月、日向に下向した畠山直顕は興国6年(1345)9月、日向守護職に任ぜられている。しかし志布志の楡井頼仲が肝付兼重と結んで大隈への侵攻を企て動き始めたので、畠山直顕と島津貞久は連携してこれを討とうとして戦備を整えていた。ところが、京において尊氏の弟・直義と高師直・師泰との不和が表面化。尊氏の庶長子(直義の養子)直冬の長門探題としての備後下向に対し、師直らは直義の勢力拡大の策謀であると考え、尊氏に迫って直義をまったく政務から遠ざけた。直冬は8月末、肥後河尻に走り、京の命を受けて下向したと称し、大いに鎮西諸侯を招いた。
この頃鎮西においては、北方で少弐対一色、南方で畠山対島津の対立が燻っていた時であった。しかし日隈では肝付兼重、楡井頼仲、薩摩では伊集院忠国ら国人の勢威が強く、畠山、島津の対立を表面化するわけにはゆかず、なお連合の体制を布いていた。そのうちに足利家の内訌はますます紛糾を重ね、尊氏は遂に直義討伐を命じ、直冬は公然と勢力扶植に努め、島津麾下の将士をも招こうとした。
直冬追討の命を受けた一色範氏は直冬、少弐勢力におされ、九州は著しく動揺したので再び尊氏、師直は西下して直冬を討とうとした。ところが先に師直・師泰兄弟のために退けられていた直義が勢力を挽回し、一時吉野朝廷に帰順してしきりに諸国の豪族を招き、尊氏不在の京を制圧しようとした。尊氏、師直は急ぎ東上したが敗れ、丹波、播磨に逃れて和議を請い、主客顛倒した。
正平6年(1351)3月驕慢を極めた師直兄弟も誅に伏し、尊氏兄弟は和解、再び直義が義詮を補佐し政務を見ることとなった。だが、この和議は7月にはたちまち破れ、直義の関東下向についで今度は尊氏、義詮が吉野朝に帰順して直義父子に対抗しようとした。
中央の情勢がこのように目まぐるしく変転し、しかももうこの頃になると、南北朝の対立はこれを利用した武家内内部の対立に転化していった。こうなると九州も、尊氏・義詮=一色家対直義・直冬=畠山・少弐連合との対立抗争となり、島津家の立場は微妙に変化せざるをえなかった。肝付兼重、楡井頼仲の宮方連合を畠山家と連携して討とうとしていた貞久も尊氏方と同じく宮方に転向、直義に与力する畠山家と敵対することとなった。ただし、この時までに肝付兼重は死没して、子・秋兼は直顕について宮方の楡井頼仲を、同じく直顕に属していた禰寝家らと共に攻撃する立場に変わっている。楡井家の志布志城はかつての盟友・肝付らの手によって観応2年(正平6・1351)8月13日に陥落した。島津家は貞久、子息・師久、氏久兄弟(頼久、宗久の弟)が国人勢を指揮して直冬方勢力と交戦した。他方、直義方も高師直・師泰兄弟追討を国人に命じ島津一族伊作、山田家入来院、二階堂、比志島家らが直冬方に与力している。
志布志城の楡井家を倒し肝付秋兼を味方に引き入れて気勢のあがった畠山直顕は、今や薩摩をも制圧しようとするに至った。一方、また直顕と結んでいる直冬は、島津家の勢力を殺ごうとして、しきりに薩隈の将士を招き、その歓心を買うことに努めた。すなわち、観応元年(正平5・1350)中には禰寝、河上、山田、伊作、渋谷家らを招き、2年には渋谷重興、入来院倉野地頭・豊田家及び武光重兼の大宰府警固を賞し6月武光重兼に宮里地頭職を、7月には伊作宗久に兵糧料所として日置、伊作両荘の領家職を預けて薩隈の敵を討たせ、山田忠能にも同じく下知し、渋谷重勝に入来院清色郷地頭職を安堵して、人心の収攬を図った。
観応2年(正平6・1351)7月、京にあっては尊氏、直義の和議が崩れ、尊氏が吉野朝方につき、北九州の一色範氏も宮方になり、今また自分の足元を直冬、直顕に脅かされる形勢になっては、島津貞久も宮方について戦うしか道はない。8月13日の志布志城陥落前に吉野朝に帰順したため、一族伊作宗久、同忠親、渋谷重勝、同重興らの武将もまた島津家にならった。この間、両軍互いに恩賞合戦を行い三州諸侯を味方に引き入れようとしたので、同族相攻め、今日の友が明日は敵という泥合戦の様相となり、もはや理や法によらず武力による所領の争いが展開され救いようがなかった。観応2年(正平6・1351)9月上旬、島津氏久は南九州の国人を率い「筑前国月隈・金隈合戦」に探題方として従軍している。島津家の数々の軍功に対し文和3年(正平9・1354)、探題・一色範氏は島津貞久に鹿児島郡郡司職などを宛がっている。
しかし、観応3年(正平7・1352)になると情勢はまた一変、尊氏が関東の直義を倒し再び北朝の光明院を担いだ。大隈国大将・畠山直顕は直冬方であり、大隈国内の支配は島津家よりも強力であった。直顕が与力していた直冬は養父・直義の死で勢力衰退し、大宰府で一色軍に敗北したことにもより九州を去り中国地方へ本拠を移動した。直冬の九州退去により直顕陣営も動揺した。直顕が組織した在庁系・正八幡宮系領主の中には島津家に味方するのも出てきた。貞久は薩摩・大隈両国内に宛行状・預ケ状などを発給し、国人掌握につとめる中で、直顕方国人に対しても南朝年号使用や所領の預置・宛行などで切崩し工作を行った。
三州諸侯の党与関係にも変化が生ずることになったが、畠山直顕はよく日向、大隈を制圧していたので、島津家はこれと対抗するため尊氏や一色家にならって再度北朝側についた。正平7年4月以降日向穆佐院を本拠としていた畠山直顕への攻撃が始まり、7〜8月にわたって両軍で激戦が展開された。だが、すでに大隈の大半を勢力下に置いていた畠山家を破ることはできず軍を率いていた貞久の子・氏久はかろうじて薩摩へ帰還した。この間、同7年12月楡井頼仲が再び蜂起したが、大姶良城や大崎胡摩ケ崎城を落とされ、同12年2月、志布志の大慈寺で自刃した。
正平7年における北九州の情勢は筑、豊、肥において一色、大友家が尊氏方、少弐家が直冬方であったが、南九州においては畠山直顕、伊東祐氏が直冬方であった。島津貞久の立場は困難で、外に畠山、伊東の外敵があり、内に市来太郎左衛門尉、東郷蔵人、在国司道超一族をはじめ牛屎高元等の官軍があった。また大隈でも貞久方と畠山方の二派に分かれて対立していた。これらの勢力から挟撃され、島津家の苦境は頂点に達し、しきりに京の尊氏へ援軍を求めたが、尊氏もまた直冬、山名時氏、四条隆俊らの入京を受けみずからも苦境に陥っていたので応ずることが出来ずにいた。そこで、頼りにならぬ尊氏の為に力を尽くすよりも、まず当面の敵・畠山家を倒すため宮方の三条泰季に降り、再び官軍となって直顕の加治木岩屋城帖佐萩原城などを攻撃した。正平12年(1357)直顕は志布志松尾城の新納実久(貞久子、大隈守護職氏久の養子分)を攻めるが、鹿児島から来援した氏久軍のために敗れ櫛間に退き、さらに飫肥に走り伊東家の援を求めたが得られず、ついに本拠・穆佐院に拠った。これより畠山家は勢力を失い、遂に菊池武光の攻略により没落、延文5年(1360)直顕は事実上南九州から撤退し、氏久は島津の大隈領国化の基礎を築いた。
北九州で一色家は菊池家に大敗、範氏・直氏父子はあいついで帰京した。南朝勢力強盛化に対応し幕府は後任の探題に足利一門・斯波氏経を任命した。氏経期に島津家は少弐、大友家らと異なり、守護管国内における半済実施権、闕所地処分権が付与されなかった。島津家は探題に抗議したが認められず、探題と、島津家との関係は冷却化した
探題・今川了俊下向
九州では南朝方優勢のうち正平16(康安元・1361)〜18年(貞治2・1363)、北薩の和泉、牛屎家や北隅の馬越家(菱刈一族)、肥後国芦北郡七浦衆が一揆を結んでいる。その後正平23(応安元)〜25年の一揆には前記国人に加え、渋谷家や肥後国球磨郡国人、野辺家らの日向国人などが参加している。この二つの一揆は、いずれも南朝方が組織し、反島津で結集南朝方一揆に参加した国人の目的はそれぞれ異なるが、和泉、牛屎、渋谷家の場合は所領支配維持の為の島津家の軍事的圧力排除であったと考えられる。島津家は南朝方勢力の優勢さに耐えかね、建徳2年(応安4・1371)南朝年号を奉じている。
この頃、筑豊方面における征西大将軍宮懐良親王の戦果が次第にあがり、探題・一色直氏も長戸へ走り、豊後の大友氏時も宮方に降っていた。薩隈日の三州も直顕残党の討伐が攻を奏し、ほとんど宮方の勢力下に入り、島津家は領国内部の経営に力を用いる段階になった。しかし正平14年10月、再起した畠山直顕が相良定頼と謀って島津氏久に対抗しようとしたので、日向に攻め入り「国合原合戦」でさんざんに敗れた。
島津貞久は正平18年(貞治2・1363)4月10日、三子・師久に薩摩国守護職、四子・氏久に大隈国守護職を譲ったが、正平7年(1352)頃には老齢と病魔のため、師久、氏久の二子に薩摩、大隈の経略を委ねている。
鎮西の天地は一色家の帰京、大友家の降伏、島津家の帰順、畠山直顕の没落により、宮方の勢威に圧せられたかのようにみえたが、正平14年末から15年初めにかけ形勢が一変した。大友氏時、少弐頼尚の叛がその発端となったのである。足利義詮は正平16年3月、一色家の後任に斯波氏経を探題として下向させ鎮西武家方の不振を挽回しようと図り、また島津家もこれより少し前に武家方に戻っていた。
しかし、斯波氏経下向はその必死の努力にもかかわらず失敗し、18年春には空しく帰京せざるを得なかった。その原因は、将軍・義詮が氏経に兵糧所領として薩隈両国社寺本所領の半済を与え、島津家の守護管国内における半済実施権、闕所地処分権が付与されなかったことにもよる。半済とは年貢上納のうちを折半してその一を本来の領主に残し、後の一半を没収して兵糧料にあてようとしたもので、恩賞給地にゆきづまったあげく考え出された暴政である。この半済を少弐、大友、畠山直顕の分国を望んでいた薩摩、大隈、筑後の三州にのみ施行しようとしたものだから、島津家の不快を買ったのは当然である。貞久は康安元年〜2年(1361〜62)の間、しきりに申条を送って不公平を訴えた。これに対し足利義詮は、何らの誠意ある解決を示さず、そこで島津家は斯波家に対し積極的援助を行わなくなった。この半済事件は半済そのものの不法を鳴らしたものではないと思われ、島津家自身も社寺領を押収して兵糧料所として麾下に与えている。
正平18年(1363)7月3日、薩隈日の前守護・島津貞久は95歳の高齢で没した。三子・師久、四子・氏久はそれぞれ薩摩、大隈を文領して国内経営に努めていたが、翌19年(1364)2月には渋谷重門が同9月には伊作宗久の子・親忠が宮方に帰順するという波瀾もあったという。師久方を総州家、氏久方を奥州家という。
正平18年(1363)斯波氏経の潰走以後、足利家は鎮西官軍を制圧するため、渋川義行や山名師義を派遣しようとして果たせず、遂に正平22年12月、足利一門の今川了俊を九州探題に任命した。了俊は応安4年(建徳2・1371)末に九州へ上陸し、南朝勢力に攻撃を加え続けた。応安5年(文中元・1372)8月12日には大宰府から懐良親王を追い払って肥後菊池に退去させた。
島津家は応安5年(文中元・1372)に了俊指揮下に入り、翌年下相良家も了俊方に帰服した。下相良家が幕府方に味方したため、南朝方が組織した一揆は瓦解した。
探題・了俊は南朝方勢力追討のため、薩摩国守護・島津伊久(師久後継)、大隈国守護・島津氏久に協力を要請した。しかし、了俊と島津家の協力関係は永和元年(天授元・1375)に島津家の斡旋で対菊池戦に参陣した少弐冬資を了俊が闇討ちした「水島の変」により決裂し、敵対関係に突入する。
水島の変
今川了俊は官軍が集結しつつあった肥後・菊池城を葬らんとして永和元年(天授元・1375)8月、水島に奥州家・島津氏久、大友親世、そして島津の仲介で少弐冬資と会した。8月26日、冬資を了俊の陣中に招いて弟・今川仲秋に刺殺させるという事件が勃発した。次いで了俊は、氏久を筑後守護職にすすめて宿舎に招いた。このような事件の直後であり、従臣は危うんでこれを止めたが、氏久は怯懦排すべしと敢然宿舎に赴いた。この時了俊は、
「島津、少弐、大友の相共に九州を鎮するや久し、今冬資を招き共に忠を尽さんとするに、却てこれを刺殺するは豈恥ぢざるを得んや」(『島津国史・巻七』)
と書き留めて帰国し、少弐家と共に公然と探題より離反した。これを契機に、了俊の心事を不快とした島津家は三度宮方に帰順することとなった。
いまや今川家と島津家の対立は救うべくもなく、永和3年(天授3・1378)3月、日向蓑原において氏久軍と今川満範(了俊子)軍は激突、今川は大敗した。その後、氏久は伊久のすすめに従い、また武家方についたが了俊との間は充分に和せず、了俊が氏久を無視して薩隈の兵を動かそうとしているのを不快とし、またもや氏久、伊久は共に宮方につき禰寝家らも従った。
永徳2年(弘和2・1382)、島津伊久、氏久は今川了俊に帰服した。この結果、伊久は同年、薩摩国守護に復職している。島津氏久は了俊との関係が円滑でないため、氏久自身の守護復帰はなかったが、至徳元年(元中元・1384)に子息・元久が大隈国の守護に復職している。島津家の帰服は国人一揆に動揺をもたらし、至徳2年、相良家が一揆から離反した。島津家の帰参で対南朝方勢力打倒の意味で組織された一揆は存在意義を喪失し、最終的には崩壊した。
氏久は大隈国守護を解任後も島津荘大隈方などを直轄領化し、国人に宛行うことにより組織化、被官化を進めている。また、了俊が組織した一揆に参加していた国人の離間策を執拗に行った。氏久の子息・元久は南北朝末期に鹿児島郡内に清水城を築いて本拠とし、大隈国だけでなく薩摩国内の国人を被官化した。
帰服したとはいえ、島津家は了俊に必ずしも従順ではなく、禰寝家にも離反された了俊は苦しい立場に立たされた。嘉慶元年(元中4・1387)氏久は死去し了俊の南九州制圧も前進しかけ、あくまで伊久、元久(氏久子)の孤立を謀り、ついには応永元年(1394)将軍・足利義満を動かして両島津討伐の御教書を薩隈の御家人に通達するに至った。ところが応永2年(1395)8月、了俊は九州探題を解任された。了俊の解任は元中9年(1392)10月に南北朝皇統の合体が行われたからであろう。
了俊解任後、元久、伊久はともに渋谷家を攻撃し、新探題・渋川家に協力した。しかし元久の薩摩国支配が進展すると両者は対立関係となった。幕府は両者の抗争に関しては伊久側を援護し、薩摩国支配を伊久死後は子・守久にゆだねた。しかし、島津守久は薩摩国内に支配を及ぼすことができなかったため、幕府も既成事実を追認し、応永16年島津元久を薩摩国守護に任命した。島津元久は両国の守護を兼帯し、反抗する国人と戦いながら領国支配を進展させていった。
島津家の内訌、奥州家対総州家
元中9年(1392)全国に動乱を巻き起こした南北朝の対立は解消し、応永2年(1395)探題・今川了俊も京に召還された。引き続き渋川満頼、子・義俊が探題として鎮西御家人の統御にあたることになったが、幕府の威勢も衰え、これより各国守護の分国体制が現出することとなる。50余年にわたる争乱はますます広がり旧体制を破壊してゆく。
島津家第7代・島津元久は京都に屋敷を造営し上洛しているが、このことは幕府の守護在京政策の一翼にはいりつつあることを示している。幕府は守護の闕所地処分権を拡大したが、元久は幕府から認められた権限拡大を背景として国人の被官化と領国支配を一層進展させた。
外敵が去れば内訌が起こる、というのが世の常だが、島津家もまず総州家、奥州家の分裂が起こり、三州においては北薩の渋谷家のごとき大族が独立体制を布いていた。総州家・伊久と奥州家・元久は連携して今川家の南侵を防いだが、応永7年(1400)以降次第に不和を生じ、山東の大族・渋谷五族のうち、鶴田家は元久に与し、他の四族(入来院、祁答院、東郷、高城家)は伊久に与した。伊久は大村、清敷、柏原、東郷高城の兵を率いて鶴田家を攻撃したので元久はこれを救援した。すると、伊久は相良実長と盟したので、相良家は牛屎家の兵を率いて来援、応永8年(1401)鶴田の千町田で戦闘となり、元久は敗れて菱刈へと逃走した。以後も両者は対立していたが、応永11年(1404)幕府は両者を和解させ、元久を日向、大隈の守護職に補任した。同14年(1407)4月、伊久が平佐城で没すると子・守久、忠朝、守久の子・久世らは元久と争った。だが、伊久は生前子・守久と不和で守護職を譲っていなく、また薩摩を統一する力量も無かったので、応永16年(1409)9月、将軍・義持は薩摩国守護職をも元久へ与えた。
応永18年(1411)に元久は死去、異母弟・久豊が守護職を継承した。元久は甥の初犬丸(千代丸・伊集院頼久の子)を後継者に定めていたが、久豊は初犬丸を鹿児島から追放して家督を継承した。久豊の強引な家督継承が原因で、久豊方と伊集院方の間で元久の後継者を巡る抗争が展開された。久豊方に味方したのは相良家や禰寝、山田、比志島家で、伊集院方に与力したのは入来院、菱刈家らであり、両軍は応永20〜25年の間戦った。
元久は、一子・梅寿を伊集院頼久の叔父・福昌寺開山石屋真梁の福昌寺に出家させていたので、世子がなく、頼久、真梁とも謀りその子・初犬千代丸を嗣子にしようと決めていた。元久弟・久豊はかねて兄・元久とは不和で日向の穆佐に帰っており、また総州家・久世と結んでいるという噂もあったので疎外されていた。初犬千代丸の後継問題に立腹した久豊は、初犬丸を鹿児島より追放して元久の後を継いだため、三州では内戦状態となった。この時久豊の勢力範囲は鹿児島、谷山、末吉、鹿屋、大姶良などわずかな地にすぎずこれに対して伊集院頼久は伊集院を中心に川辺、給黎を領し、総州家・守久は山門院、同忠朝は隈之城に守久の子・久世は碇山城にあり、すべて頼久に与した。これより久豊は頼久方と戦い続け、応永25年に伊集院頼久は久豊に降った。なお以降も残党軍と戦い、おおむね応永29年(1422)末までには集結した。
奥州家当主の座を実力で獲得した久豊は、応永6年以降継続している総州・奥州両島津家との最終決戦に挑んだ。総州家方に味方したのは相良、入来院、牛屎家らで、元久後継者争いで久豊を支持した相良家は今度は逆に久豊と敵対した。久豊方に味方したのは伊作、阿多家らで両者は応永29年に至るまで争った。同23年、総州家・島津久世(守久子息)は追い詰められて自刃。その後次第に久豊方が優勢になり、29年総州家・島津守久は肥前国へ出奔し、両島津家は奥州家に統一された。
久豊期は強引な家督継承により戦闘に明け暮れた。幕府も久豊の島津家当主としての家督継承を長い間認めなかった。しかし久豊が総州家との戦闘に勝利した応永29年、久豊の守護職継承を認めた。久豊末期に作成されたと想定される島津家の菩提寺福昌寺の『仏殿造営奉加帳』に、島津一族、譜代被官や国人たちの名が記載されている。奉加帳の記載から、この頃までに大隈正八幡宮領関係領主たちが、島津家の支配に服していたことがわかる。これも、久豊に至るまでの奥州・島津家の領国経営の結果であろう。
応永32年久豊は死去し、子の忠国(初名・貴久、忠国は嘉吉2(1442)以降)が守護職を継承した。忠国期国人たちとの大規模な領国内の内戦が起こった。永享4年(1432)、伊集院家は入来院家ら渋谷一族、牛屎菱刈家ら北薩摩の国人たちと一揆契約を結び、再び島津軍と戦った。この国人一揆は、守護支配の脱却と直勤御家人としての地位確立を目指した対島津家の性格が強いものである。一揆の結成を支援した肥後・相良家は、一揆が島津家の北上阻止・封じ込めに寄与することを期待していた。当初一揆は島津家を窮地に追い込むが、幕府の介入もあり伊集院家は島津家に降伏、忠国の弟・好久(用久)による討伐作戦で一揆は瓦解しかけた。
忠国は「国一揆」に対抗するため、弟・好久を守護代とし、自らは大隈末吉に移った。好久は大いに国内の経営に努めたが、今度は忠国、好久が対立。一揆に参加の国人討伐は果たされなかった。このため渋谷家ら残党が総州家島津一族を擁立し、文安年間(1444〜49)再び決起する。忠国、好久の内訌は嘉吉元年(1441)3月の“大覚寺義昭事件”を機に幕府の支持を受けた忠国方が次第に優勢となった。好久は谷山城に拠り、樺山孝久、伊東祐堯等味方する者も多く、忠国は禰寝家らを頼った。
その後、忠国は渋谷家ら残党の一揆討伐に好久方の軍事支援を得る為、好久と和睦した。好久は渋谷家ら一揆を結んだ国人を、宝徳年間(1449〜52)までに討滅した。忠国は肥後国内に攻めこみ、国人一揆を支援した菊地、相良家と戦火を交え、島津家に敵対していた国人勢力に勝利するが、その子・立久と不和を生じて加世田別府城へ移り、忠国没年まで立久が鹿児島にあって国政にあたり領国安定に努めた。
下り衆」で占められた九州守護職
九州における初期武士団の活動は「承平・天慶の乱」(936〜941)における藤原純友の討伐や、寛仁3年(1019)刀伊族入寇の迎撃などによって確認できる。これら武士団の多くは他の地方と同様、国・郡の官人以外に荘園の名主職、荘官職といった人々が組織したものである。だが、九州における特殊事情として太宰府という中央各官庁の分身が、古代からの権威の中心として存続し、その退官者の多くが武士団を形成していったことが挙げられる。
戦国時代になっても、国人領主として北部九州地方に蟠居した大蔵家系武士団(秋月、原田、江上、田尻)といわれる人々がその一例である。また、肥後国北部に勢力を張り、南北抗争期に活躍した菊池家もこの類である。
源平の抗争によって源家の天下になると、平家に味方した鎮西諸将の領地は没官領として没収され、鎌倉幕府の息のかかった東国諸将が、地頭職として次々と鎮西の荘園に下ってくる。これらの武将を九州では“西遷御家人”または“下り衆”と呼ぶのである。下り衆は在地武士よりも、鎌倉政権に直結した御家人であることから優位に立った。中世四世紀を通じて、九州における守護職はほとんど下り衆によって占められたのである。
九州三人衆と呼ばれる筑前・武藤(少弐)家、豊後・大友家、薩摩・島津家が最も有力な守護職とみなされた。武藤家の初代・資頼は平知盛の家人であったが「一の谷の合戦」で平家を見限り、顔見知りの将・梶原景時の陣に投降。三浦義澄にお預けとなり、2代将軍・源頼家の元服に故事の指導をし、「奥入り合戦」で戦功を認められて鎮西奉行に抜擢され、建久6、7年頃(1194〜95)、他の御家人に率先して九州に下向し、自力開拓した人物である。大友家の初代・能直、島津家初代・忠久はどちらも源頼朝の落胤説を背負っていてその実力のほどは不明というほかない。両者とも守護職や地頭職を拝領しているが、自身で下向してきてはいない。
鎮西探題誕生、太宰府は衰微する
「承久の乱」(1221)以後、北条執権政治は京都に六波羅探題を設置して、鎮西もその直轄下に入った。次にいよいよ九州特有の大事件、二度の“蒙古襲来”がおこる。
「文永の役」(1274)、「弘安の役」(1281)に鎌倉幕府もそれなりの対策、命令を発したことは証明できるが、海岸線で実戦参加したのは少弐(二代・資能、三代・経資、弟・景資)、大友(三代・頼泰)を主将として戦った九州の武士がほとんどであった。
北条一門の被官も多少参戦しているが、これは北条一門が次第に勢力を延ばして九州の守護職を逐次、その掌中にしつつあったからである。「弘安の役」後は、鎮西九カ国の中、実に六カ国が北条一門の守護職となってしまった。
対外戦を命懸けで戦った九州の武将達には、恩賞地配分問題その他の所領紛争が山積した。遠い鎌倉や、六波羅に出向いて訴訟に熱をあげる武将が続出すると、元の脅威が未だに続いている鎮西の防衛に支障をきたす。「弘安役」以後、鎌倉幕府は試行錯誤の末、永仁5年(1297)、北条実政を正式に鎮西初代探題に任命。裁判沙汰の現地処理の権限を与えた。<これより先、正応6年(1293)、北条兼時、時家が軍政官として鎮西に下向しているが、彼らには裁判権が付与されていないから、正式の探題ではない。>この時から、九州の政局は太宰府から博多の探題府に移り、少弐家が主管した太宰府守護所は衰微。博多は訴訟人で門前市をなすにぎわいを呈した。
南朝軍の栄華と、探題・今川了俊
建武2年(1335)、後醍醐天皇の建武政権に叛旗を翻した足利尊氏は翌3年3月2日、「筑前多々良浜合戦」で宮方の菊池武敏を討ち、少弐頼尚を案内に立て、太宰府原山無量寺に本営を置いた。1ヶ月余りで概ね九州攻略をみとどけた尊氏は、4月になると早くも頼尚以下、九州諸将を率い東上作戦を開始する。
5月25日には「湊川合戦」で新田義貞を破り、楠正成を戦死に追い込んだ。後醍醐帝は再び比叡山に退去。尊氏はこの九州勢を伴っての京都遠征の留守中、九州には腹心の仁木義長、一色範氏を残し、豊後玖珠城の掃討戦に従わせていた。一色範氏はその後博多に本拠を置き足利政権の事実上の九州探題として活動するようになる。(慣例上、鎌倉幕府の探題を鎮西探題、足利政権の探題を九州探題と呼ぶ。)筑前守護・少弐頼尚としては、足利尊氏を右大将・源頼朝の再来に擬し、父・貞経は一族もろとも宮方の攻撃に有智山城に玉砕してまで尊氏の天下取りに貢献したのである。それにもかかわらず、またまたこの期におよんで、足利一門の一色範氏を九州探題として博多に残されては、何のために今まで働いたか、目も当てられぬ結果である。この点が南北朝の動乱は終息しても、九州の騒乱は決して収まることのなかった最大の要因である。
南北朝初期の九州探題・一色範氏、直氏は、足利尊氏の忠実な分身として、困難な局面によく対処した武将であった、と思われる。しかし、如何せん足利幕府は、尊氏方と実弟・直義方に分裂する。
九州では、後醍醐天皇の皇子・懐良親王が十数年を費やして、正平3年(1348)肥後国隈府の菊池家の城に入る。翌貞和5年(1349)には尊氏の不肖の子・直冬が肥後国川尻に来着。与力の武将を募って父・尊氏に叛逆行動を起こす。しかし直冬は3年後には九州を退去する。直冬を担いだ少弐頼尚は宮方と協力し、探題・一色範氏と筑前、筑後各方面で度々激突した。観応2年(1351)には筑前月隈、金隈、筑後河北荘、文和2年(1353)には筑前針磨原が、また翌3年には探題の姪浜城、飯盛城(筑前早良郡)が陥落。一色家は翌文和4年、九州を放棄して京都へ逃げ帰った。
延文3年(1358)に足利尊氏が没し、九州の戦局は宮方の優勢裡に事態が進行した。正平16年(1361)、征征将軍府を太宰府に進めた南朝軍は、十数年間の黄金時代を現出する。当時全国で唯一の南朝軍優勢地域であった。幕府軍は、九州探題に斯波氏経、渋川義行を任命して態勢の挽回を図るが、ことごとく失敗。事態を憂慮した足利義満は、応安3年(1370)最後の切り札として今川貞世(了俊)を任命する。
当時老境に入り、京都にあった少弐頼尚は、有能な武将・今川了俊の西下に危惧の念を抱いたのか、早速子息・冬資を西下させている。冬資は筑前、肥前に転戦、南朝軍が撤退した後は早速旧領回復に専念した。 応安6年(1373)9月、了俊は冬資が宗像社領平等寺を違乱するとして鎮圧を命じている。九州回復の初めから探題・今川了俊と守護・少弐冬資は別々の思惑で行動し、衝突したのである。
永和元年(1375)了俊は南軍攻撃を開始し主力の菊池軍を肥後の本拠地に追いつめた。菊池本城陥落も目前となり、九州の戦後処理の会合を行うということで、九州三人衆の来陣を求めた。菊池十八外城の入り口を扼する水島城を望む近陣である。
島津氏久、大友親世は来陣したが、少弐冬資はなかなか姿を見せない。了俊は島津氏久に仲介を求めて、冬資に来陣を促した。冬資も島津家の仲介とあっては断りきれず、水島に出かけた。
了俊の陣で挨拶が終り、酒宴の席が始まった。が、その最中に了俊の弟・仲秋らが冬資を押し倒して殺害した。この事態に面目を失したとして憤った島津氏久は、薩摩に将兵を帰し、以後、反今川の行動を起こす。これが「水島の陣」である。この後20年間、南九州は治まることはなかった。大友親世も退去し、少弐一門は総領を失ったが冬資の弟で、早くから宮方で活動した頼澄が跡を継ぐことになった。
名探題と称される今川了俊にとって“水島の陣”は一生の不覚であり、九州三人衆の恨みは永年消えることはなかった。特に少弐家にとっては、探題といわれる存在は、“不倶戴天の敵”となってしまったのである。
今川了俊失脚、大内家の九州介入へ
それから20年、今川了俊はまがりなりにも九州を“静謐”といわれる状態にもっていったと思ったとたん、将軍・義満から探題を罷免され、京都に召喚された。喜んだのは九州の守護達である。犬猿の仲であった少弐貞頼や菊池武朝等が、了俊の帰還路が安全であるように世話を焼いているのである。また島津氏久の甥・伊久は、大友親世から了俊召喚の報に接し、次の返事を残している。
「前略、今川了俊殿上洛の事承り、悦び極まりなく候。御存知の如く、三カ国(薩摩、大隅、日向)の凶徒(反島津の士豪等の一揆)等此一家(島津家)に叛逆を企てる族に力を副へられ、大将(今川満範)を差下さる事、御意趣何事に候や…中略
一方、今川了俊の下で若い時代を過ごした将に、周防国府官人を先祖に持つ大内義弘がいた。彼は明徳2年(1391)の「山名氏清の乱」に大功を立て、翌3年の南北朝糾合にも、紀伊国守護として功があった。それから中央政治に参加するようになる。応永2年(1395)の了俊召喚も大内義弘と大友親世の讒言によるもと噂された。義弘はあわよくば九州探題を望んだのかもしれない。
しかし応永6年に叛乱を起こし、泉州堺で討伐され野心も水泡に帰した。だが西国の大守護大名としての大内家の名跡は、弟・大内盛見が惣領権を確立したことによって継承されていく。了俊の後任には足利一門の渋川満頼が任命された。凡庸な彼は大内家の後援によって地位を保てる状態であった。少弐頼澄の子・貞頼は菊池武朝と連合し、応永初年豊前猪岳、赤池興国寺、筑前八田、恵通寺宗像各地に渋川・大内連合軍と対戦している。
応永26年(1419)、李氏朝鮮の正規軍が、対馬の倭寇本拠地を掃討する名目で攻撃を仕掛けてきた。「応永の外寇」である。この時、対馬の守護は少弐満貞、九州探題は渋川義俊。両者とも朝鮮貿易に熱心であったが、事は天下の重大事件でどちらにも防衛の責任がかかっている。現地の宗家(貞茂、貞盛ら)一門と合同で防衛すべきところであるがそのような資料は残っていない。各自が別々独自の行動をしているようである。
翌応永27年、戦後処理の目的で李王朝の宋希景が訪日。『老松堂日本行録』という詩文を残している。
「8月4日夜、老元帥義珍(渋川満頼)来見す。…中略…我れの去来に二人相見するは、皆初更(午后8時頃)なり。未だその故を知らず。」
とあり、渋川探題は親子とも、博多の寺に滞在している外国使節に夜分こそこそ会いに来る。なぜだろうか、といぶかっている。これに反して、当時「応永外寇」に対して最も強硬な態度を示したのが少弐満貞である。事と次第によっては、逆侵攻を仕掛ける意志があったのである。
応永30年(1423)になると、少弐満貞は渋川義俊を博多から追放することに成功する。。これに対し幕府は、筑前国を直轄領とし、翌年代官に大内盛見を任命した。大内家としては九州侵攻の大義名分を得たことになる。
永亨3年(1431)当時豊後・大友家は家督争いで家中が分裂状態にあったが、12代当主・大友持直は幕府の干渉に反発。少弐満貞と同盟し「筑前怡土郡萩の原」で大内盛見率いる大内軍と交戦。盛見を戦死させた。当時の幕府は大混乱をきたした。
永亨5年(1433)、大内持世軍の九州侵攻により少弐満貞は筑前国秋月に自刃するが、豊後姫嶽に拠った大友持直軍の抵抗は永亨8年まで続いた。その後永亨6年、渋川探題三代目・満直(満頼の甥)は、少弐満貞の弟・横岳頼房に攻撃され、肥前国神崎郡で戦死している。これは将軍家一門の探題といえども、いまは権威を全く喪失。中央政治に強い発言力を持つ、守護大名家の下風に立ち、危険をまともに受ける境遇に転落してしまったことを示している。
そして渋川探題家も筑前守護・少弐家も豊前、筑前国を大内家に追い出され、探題・満直の息で4代目教直と少弐満貞の息・教頼も肥前東部を本拠とした。亨徳3年(1454)には両者は肥前巨勢荘で交戦している。
応仁元年(1467)には「応仁の乱」が勃発。大内軍(政弘)が西軍として上京したので、必然的に少弐教頼は細川勝元の誘いに応じて東軍に参加。当時手薄と思われた太宰府を奪還しようとして対馬の宗盛直と共に軍を進めた。しかし、大内家の守りは固く、筑前御笠郡水城(志摩郡水崎)で戦死した。
少弐家の跡を継いだのは教頼の子・政資である。文明元年(1469)政資は大内軍主力の上京の隙を突いて、筑前、豊前を回復し、大内勢力を久しぶりに九州から排除した。しかし、大内家の方がいつも一枚上手であった。大内政弘は文明3年(1471)少弐政資が肥前小城郡の千葉家の内訌に介入。無理に対馬の宗家の出兵を促し、それが不幸にも荒天で2000余の兵を海上で失った事件を見逃さなかった。これを契機に、少弐、宗家の離間を図る。それがある程度成功して宗貞盛は少弐、大内両家と等距離を置いて接するようになった。そして大内政弘は、文明9年再び九州に侵攻する。
渋川探題も名目だけは続くが、長亨元年(1484)渋川万寿丸は筑前亀尾城において家臣により暗殺。最後に天文2年(1533)12月、渋川義長は少弐資元に与同し、肥前朝日山城を大内軍に攻撃されて敗北する。これが九州探題の顛末である。
反探題が眼目であった少弐家も少弐政資以降、探題は眼中になく大内家との抗争に転化している。しかし、大内義興の攻撃に敗れた少弐政資は明応6年(1497)、豊前、筑前を失陥し、遂に肥前国多久の専称寺で自刃。その息・資元、孫・冬尚と少弐家の家系はまだ続くが、肥前国東部の一小勢力に転落して、守護大名としての権威は既に喪失してしまった。その後少弐家の被官であった龍造寺家が戦国大名として台頭する。
この間に内紛の多かった豊後・大友家は、何とか持直と対立した親著系に統一。少弐家に比べ体制順応的家風が幸いしてか、順調に守護大名から領国支配の戦国大名に成長する運に恵まれた。
奥三国の守護大名・島津家も、南北朝期の氏久(奥州家)、師久(総州家)の分裂以来、各庶流の実に複雑な離合集散を繰り返しつつも、古代以来の在地諸豪族を次第に圧倒。遂に戦国大名に成長し、九州統一目前までいくなど、近世大名の列に加わることができた。
古代島津荘の地頭から近世大名として、連続して存在できた大名家、それも守護大名を経過した家系は、島津家以外は皆無である。足利幕府管領家の名跡は継いでも放浪の大名細川家と比較すれば、島津家の在地的重量感は理解できるはずである。